サミズダート

素朴な一市民「異邦人」の政治経済雑感。兼備忘録ときどき日記。

憲法97条の削除は「民主主義に対する宣戦布告」に他ならない。

 

ここ最近は政治の話題が続きましたが、今日は久々に憲法に関する記事です。その中でも、日本国憲法第10章「最高法規」の最初の条文である97条について触れていきます。

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突然ですが、皆さんは、憲法最高法規性」をどのように理解していますか?

 

恐らく、義務教育では全ての法律の頂点に立つ「法律の親玉」だとか「王様」といったようなニュアンスで教えられたかと思います。厳密に言えば、憲法と法律は違うのですが、それは置くとして「全ての法律が歯向かえない法律」という意味では、それは正解です。何せ「最高」の位置にある「法規」なので、何となく分かりますね。

 

しかし、この「最高法規性」には大きく分けて2つの要素がございまして、今日はまずそこから紹介しておきたいと思います。この理解を踏まえると、タイトルにあるような「憲法97条の削除」が如何に戦慄すべき行為であるか、イメージが掴みやすくなると思います。もちろん、何が現行憲法の97条を削除しているのかといいますと、毎度おなじみ自由と権利と民主主義が大嫌いな「自民党改憲案」です。

 

では早速、その最高法規性を構成する「2つの要素」とは具体的に何かと御紹介しましょう。まず一つ目の要素というのが「形式的最高法規性」と呼ばれるもの。そして、もう一つが「実質的最高法規性」と呼ばれるものになります。

 

まず「形式的最高法規性」とは何かといいますと、その名の通り最高法規性の「形式」のみに着目している要素です。つまり憲法は全ての法律に優越する最高法規である」という表面的な事実そのものが「形式的最高法規性」である訳です。最初に紹介したような、大抵の人がイメージしていらっしゃる「最高法規性」はコチラですね。

 

続いて「実質的最高法規性」について解説します。先ほどの「形式的最高法規性」は憲法が「最高法規」であるという表面的な事実そのものを意味すると書きましたが、実質的最高法規性は「表面」から更に進んで、憲法の「内容」に関する概念になります。今までの記事でも御紹介しましたように、近代憲法の意義は、国家権力から市民の権利と自由を守ることにあります。フランス人権宣言にも「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない」と書かれている通りです。

 

 

 

つまり「実質的最高法規性」とは、人間の権利と自由を強大な国家権力から永久不可侵とする「内容」を備えているからこそ、憲法は「最高法規」なのだいう意味なのです。

 

例えば、明治憲法(大日本帝国憲法)のように、一見「権利と自由」の規定があるように見えても、それが永久不可侵ではなく、所詮は「臣民に対する天皇の恩寵」に過ぎず、尚且つ法律によって容易に範囲を狭められるような、極めて不確かな権利保障しかないような憲法は「形式的最高法規性」は備えているものの、「実質的最高法規性」を欠いているという結論が導き出せます。


私の好きなお酒で例えるなら、「シャンパンはスパークリングワインだけど、シャンパーニュ地方で作られていないスパークリングワインはシャンパンじゃない」と言った感じでしょうか。勿論、日本国憲法はスパークリングワインで尚且つシャンパンであり、明治憲法はただのスパークリングワインです。


自分で書いていてチンプンカンプンになる例えになってしまいましたが、何となくイメージは掴んでいただけたでしょうか?ご理解頂けましたら、いよいよ今日の主役である97条を見ていきましょう。

 

日本国憲法第97条

この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」

 

赤字の部分をご覧いただければ分かるように、この97条は普遍的価値観である基本的人権を獲得するに至った経緯と、その永久不可侵性について明確に規定しています。お気づきの方もいらっしゃると思いますが、これは先ほど紹介した「実質的最高法規性」の要件と合致しますから、この日本国憲法が形式的のみならず実質的な最高法規である根拠がこの条文にあるという解釈が導き出せます。

 

つまり、憲法97条は第10章「最高法規」の最初に置かれているというだけでなく、日本国憲法から切り離してはいけない最も大切なエッセンスという訳です。私達が日々自由に過ごす為の人権を国家権力から「永久不可侵」としている訳ですから、これほど頼もしい条文もありませんよね。

 

しかし、そんな私達にとって掛け替えのない97条を丸ごと削除しているのが自民党改憲案なのです。

 

当ブログでは毎回、日本国憲法自民党改憲案の条文を比較して論じておりますが、今回はそれが出来ません。何故なら、何度でも言わせてもらいますが自民党改憲案からは97条がソックリ削り取られているからです。どうしてそんな恐ろしいマネをするのか、という疑問は「国家の匙加減一つで人権をいくらでも制限したい」という自民党改憲案のコンセプトを理解している皆様は感じないと思いますが、自民党がそんな正直な説明をする筈もありません。

 

↓上段が自民党改憲案ですが、97条がガッツリ「削除」されてます。

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取り敢えず、自民党の言い分を見てみましょう。

「我が党の憲法改正草案では、基本的人権の本質について定める現行憲法 97条を削除しましたが、これは、現行憲法 11 条と内容的に重複していると考えたために削除したものであり、『人権が生まれながらにして当然に有するものである』ことを否定したものではありません」

(改正草案Q&Aより)

 

 

 

要するに憲法11条と被っているから削除しただけ」というのが、97条を削除するにあたっての自民党の表向きの理由らしいというのが分かります。とっても胡散臭い理由ですが、スルーする訳にもいかないので実際に日本国憲法11条と97条を見比べてみましょう。

 

日本国憲法11条

国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる

 

日本国憲法97条

この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」

 

どうでしょうか。確かに似ているといえば似ていますよね。特に赤字の部分については殆ど同じと言っても良いレベルです。じゃあ、自民党の言い分は正しいので97条を削除しても問題ないのか?と問われれば、それは「ノー」です。 

 
11条と97条は確かに重複しているように見えますが、そもそも、11条には97条にあるような人権獲得の経緯については記されておらず、丸ごと被っている訳ではありません。そして、11条は「人権は生まれながらにして人間が持つ権利である」という「人権享有主体性」を明確にする為の規定であり、97条は「国家権力から永久不可侵のものとして人権を保障するからこそ最高法規なのである」という憲法の意義そのものを、最高法規の章において宣言して強力に根拠づける規定で、役割が全く異なります。
 
既に述べた通り、97条は日本国憲法が形式的のみならず実質的な最高法規である根拠そのものなのですから、それをゴッソリ削り取っている自民党改憲案は日本国憲法から「実質的最高法規性」を消し去っているにも等しいのです。それはつまり、近代立憲主義ひいては民主主義の否定に他なりません。
 
日本国憲法の要ともいえる97条の削除は、条文の意義に鑑みても「重複の解消」などでは決してなく、自民党による民主主義への宣戦布告に他ならないのです。