こんばんは、異邦人です。
今日で当ブログを開設して1週間となりましたが、既に83名もの方々が読者となって下さり、PVも10000を突破しました。正直、こんなにも私の記事を読んで頂けるとは思っておりませんでしたので、御覧下さっている皆様には、この場をお借りして御礼申し上げます。本当に有難うございます。
さて、ここ最近は政治に関する記事が続いておりましたが、今日は久々に憲法について書いていきます。本当は、自民党改憲案で最も危険な「緊急事態条項」について書きたくてウズウズしているのですが、まずは今の安倍自民党が如何に基本的人権を忌み嫌っているかを紹介したいので、今日は日本国憲法の中でも「人権宣言」に相当する第三章の中でも、まずは12条を自民党改憲案が如何に変質させてしまっているかを解説していきます。
ちなみに、この12条は先ほど「人権宣言」だと紹介した第三章全体の基礎をなす普遍的規定であり、いわば土台ともいうべき条文です。土台が変質すれば当然、乗っかっている部分も必然的に変わらざるを得ない訳ですから、とても重要です。それでは、さっそく現行憲法と自民党改憲案の12条を見比べてみましょう。
現行憲法
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない」
見ての通り色々と変わっていますが、さほど変わっていないという印象を受ける人もいるかもしれません。しかし、非常に重大で深刻な変更なのです。太字の部分に注目して下さい。
まず、自民党改憲案では現行憲法の「公共の福祉」が「公益及び公の秩序」に変更されていますね。これについて、自民党の改正草案Q&Aは「憲法によって保障される基本的人権の制約は、人権相互の衝突の場合に限られるものではないことを明らかにした」と説明しています。
しかし、人権とは国民一人ひとりが持つ永久不可侵の権利であり、基本的には個人と個人の人権が衝突した場合に調整される方が自然です。例えば、貴方には表現の自由がありますけど、だからと言って他者の人格権を無闇に侵害してもいい訳ではありませんよね?その間を上手い具合に調整する為に存在しているのが、先述した現行憲法の「公共の福祉」なのです。
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ちなみに、そのように個々人の人権が衝突した場合に生ずる矛盾を調整する機能として「公共の福祉」概念を説明し、通説となっているのが「一元的内在制約説」と呼ばれる学説です。
それが「人権相互の衝突に限られるものではない」とする自民党改憲案の「公益及び公の秩序」に取って代わると何が起こるかといいますと、簡単に言えば「他者の人権」という具体的なものではなく、抽象的な「公益とされる何か」「公の秩序とされる何か」によって制限されるようになってしまう訳です。
さきほど用いた例でいえば、貴方の「表現の自由」が他者の人格権などといった具体的な権利を侵害していなくとも、国家が「公益及び公の秩序」に反するとすれば制限出来るようになってしまう訳です。こんな風に、人権が常に曖昧な基準で制限される危険性を帯びている国家を民主主義社会と言えますかね?
例えば、明治憲法(大日本帝国憲法)には「臣民権利義務」という章に「言論の自由」や「集会結社の自由」といった条文があり、一見権利が保障されているように見えるものの、それらの条文には「法律の範囲内で」という制限(法律の留保)がかけられていました。つまり、いくら見た目だけは立派な権利のメニューが踊っていても、法律でいくらでも制限できた訳です。実際、我が国には「治安維持法」が猛威を振るった歴史がありますよね。
もうお分かりかと思いますが、自民党改憲案の「公益及び公の秩序」は詰まる所、明治憲法の「法律の留保」と同じなのです。何故なら、これまで論じた通り自民党改憲案において人権が制限されるケースは、現行憲法の「公共の福祉」とは異なり、個人と個人の権利の衝突を前提としていないからです。そのような社会になれば、我々の人権は常に国家権力の悪意に脅かされるようになってしまいます。
そのような過ちを再び繰り返させない為にも、12条前段は「自由及び権利」を守る為の「不断の努力」を我々に求めているのです。